当病平癒の祈りはエゴではないのか?
当病平癒はエゴなのか
ふと思った。
そもそも
「当病平癒」という祈願はエゴからくるものではないだろうか?
なぜなら添加物に汚染された食べ物を食したり、
酒・煙草など嗜好物に浸るなどして、
結果的に病に陥ることは至って自業自得のように思えるからである。
(※すべてが上記要因ではないが)
だが一方で、
食物に添加物を加えるなどして賞味期限を引き伸ばすことで、
需要と供給の物流バランスに貢献したり、
また酒・煙草を嗜むことによって一時の心の安楽を与え、
結果的に仕事への活力へとつながっていることもまた事実。
先の問い「当病平癒はエゴか」に戻るが、
人それぞれ病気になった背景も千差万別あるからして、
一概に「ご都合主義」や「困ったときの神頼み」として排斥もできないのである。
矢が刺さって苦しんでいる人間がいれば、
矢がどこから来たのかではなく、まずはその矢を抜いてやることが先決であるように。
矛盾とのつきあい方
前の病気の由来ではないが、
因果関係というのは至って複雑に絡み合って成立していることは周知の通り。
何事も「単一的要素」を原因としてまつりあげる事自体が都合のいい話である。
自らの戒めでもあるが、
普段、自分が否定的に捉えている物事から、
肯定的要素を見い出せるようになれば、
自ずと抱えていた悩みはブレイクスルーできるようになると思う。
それは「矛盾を受け入れる」ということでもある。
矛盾というものはあなたの中にある観念でしかない。
最初から決められた矛盾なんてない。
それを矛盾と思うものが、それを矛盾として扱うだけであるから。
神との対話の中でこんな一説がある。
「世界が完璧になったなら、自分を創造するプロセスとしての人生はそこで終わってしまう。明日、訴訟がなくなれば、弁護士はやっていけなくなるだろう。明日、病気がなくなれば、医師もいらなくなる。明日、疑問がなくなれば、哲学者もいらない。問題がなくなれば神もいらない。」
— 《神との対話①普及版》p108
そもそも矛盾を孕んでいなければ人として存在理由はなくなる。
矛盾を孕んでいるからこそ、
その矛盾を解消しようという意欲も生まれる。
そういう意味では、人間の向上心を引きだすために矛盾というものはかかせない要素である。
もし一方的に矛盾を批判する自分自身がいるのであれば、
その矛盾に対し、どこか心の奥底で、
畏敬の念さえ浮かべねば到底アンバランス極まりない。
まずは自分を省みよう、うんそうしよう。
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