「だれでも簡単に悟れる方法」教えます。
はじめに
こんな見出しつけたら、そりゃ見るよね。
ご訪問ありがとう。
どうも空心です。
最近、悟りブームだから、
ちょっと乗っかてみました。
いやぁ、覚醒体験、見性体験がどうのこうのなんて
神秘体験にフォーカスする人が多いこと多いこと。
まぁそれはいいとして、
どうしたら悟れるのか?
正月に行っちゃう?お寺に。
「煩悩滅尽じゃ〜」って鐘突きながら叫べばよいのか。
ゴーンゴーンって。
・・・うん、余計ムリだと思う。
だって、次の日から福袋戦争に突入して、
煩悩炸裂するからww
ではではここらで本題。
煩悩・執着は悪者か?
まじめな人間ほど、
煩悩や執着を滅尽しようと切磋琢磨する傾向があります。
しかし悲しいかな、
その行為は悟りに近づくどころか、
逆に遠ざかってしまうのです。
クリシュナムルティは言います。
人はなぜ依存し、なぜさまざまな苦しみを背負った執着の罠にとらわれるのか」という疑問を探る前に、このことをはっきりと理解しておかなければなりません。執着から逃れようとして、私たちは無執着の状態になろうとしますが、これもまた形を変えた執着なのです。
— 《意識の変容》クリシュナムルティ、P170
つまりは、
どこまでも仏の掌の中で転がされていた、ということ。
まずはこのロジックに気づくことが肝要です。
そもそも煩悩は悪いものではなく、
煩悩即菩提で、悟りへ至るための重要なファクターでもあります。
「あるがまま」になろうとするな
では「あるがまま」になろうとすればよいのでしょうか?
実はこれも違います。
精神科医の森田正馬はこう言います。
「あるがまま」になろうとすれば、それはすでに「あるがまま」ではありません。悟ろうとせず、悟れないままの生活の中に、悟りがある。
— 《自覚と悟りへの道》森田正馬、P131
つまり悟りというものは、ある意味「あきらめ」なのです。
道元和尚の言葉を借りれば、
「身心脱落」(身心から出てくる執着が抜け落ちること)したときに悟りがあるのです。
では具体的にどうすればよいのか
それなら悟りに至るメソッドとは何か?ということになりますよね。
だれでも簡単って、あなた言いましたよね?みたいな。
はい、確かに言いました。
実に簡単なことです。
「玄関の履物は揃っていますでしょうか?」
乱れているのなら履物を揃えてください。
「トイレ汚れてませんか?」
汚れているのなら掃除してください。
履物が揃っていないのであれば心に余裕がない証拠です。
トイレが汚いのに放置するのは心に余裕がない証拠です。
そんな状態で悟れるわけがありません。
まずは頭のなかの悟り体験から離れ、
「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」することから始めましょう。
これは禅の言葉で、
他に向かって悟りを追求せず、
まず自分の本性をよく見つめよという戒め
です。
いずれにしろ、
日常生活の乱れを改善すること。これが第一です。
それがそのまま悟りへの道と直結していきます。
年末の大掃除、これ大事。
<完>
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