意味とはあなたが作り上げた信念
はじめに
意味があるのか、ないのか、
まずそれを考えてから動くのが普通です。
これは言い換えれば、
「自分にどのようなメリットがあるのか」を問うことでもあります。
では、次の言葉にあなたはどんなメリットを見い出すでしょうか?
それはピューリタン革命の先導者である・マルチン・ルターの言葉です。
「たとえ明日世界が終わろうとも、私はりんごの苗を植える」
ルターがどんな意図で発言したのか、詳細は定かではありませんが、
私なりに拡大解釈してみました。
(※以下の解釈はあくまでも私見です。おそらくルターの発言の意図とは異なることを前置きします)
意味とは「幻想」である
明日世界が間違いなく終わると仮定しましょう。
なんでもいいですが、例えば明日地球に隕石がぶつかる予測が立ってたりして。
そんな時、もしあなただったら、
世界が終わる前日に、りんごの苗を植えるという行為をどのように捉えますか?
世界がなくなるなら、苗を植えることに意味がないと思われますか?
りんごの実がならないという予測がたつなら、植えてもしょうがないと思われますか?
ちなみに上記の考え方の根底には、
「りんごの苗が成長していくプロセス」までをも含んでしまっています。
では、りんごの苗を植える意味とは、
りんごの実がなって、それを食すまでのプロセスを指すんでしょうか?
本来、そんな確定された意味などありません。
つまり意味というのは、
自分で勝手にこしらえた信念でしかないのです。
原因と結果の関係性
ですので個人的な信念を
他人に押し付けるものではありませんし、
捉え方は人それぞれでいいのです。
そもそも意味というのは後付でしかありません。
個人的に意味づけするのは自由ですが、究極的にはないのです。
ただ今回は相対的な解釈を提言したいのではありません。
よく考えてみてください。
意味というのは、「原因」と「結果」を分離して考えることから始まります。
そもそも「原因」というのは複合的な要素が絡まった概念であるのに、
特定の単一要素を原因としてあぶりだすこと自体が都合のいい話なのです。
ということは、
定まることのない原因に対し、特定の結果も存在しないということになります。
意味とは行為そのものである
ルターの言葉に戻りましょう。
「たとえ明日世界が終わろうとも、私はりんごの苗を植える」
次は、原因と結果とを分けて考えることなしに分析してみましょう。
そうすると必然的帰結として、
「りんごの苗を植える行為そのこと自体が、プロセス(意味)として自己完結している」ことに
気づきます。
つまり、明日世界が終わろうが関係ないんです。
良いとか悪いとか、意味があるとかないとか、
それは個人的な偏見でしかないのです。
つまり何が言いたいかというと、
結果に関係なく、行為そのものを純粋に楽しむことが重要なのです。
意味付けすることは生きるモチベーション
前節では「意味というものはない」と結論づけました。
しかし意味づけするのは個人の自由です。
ですので結果にこだわらない姿勢が確立できた上で、
意味付けを楽しむとよいと思います。
意味づけすることによって、
生きるモチベーションがうまれてきます。
それでも、
心のどこかで達観した姿勢(結果にこだわらない)をもっておいたほうが、
一時の感情に振り回されずにすみます。
最初に「意味がない」と結論づけた理由がここにあります。
能動的に生きたほうが得
行為そのものに対し、あえて「楽しむ」という価値を付加した理由は、
それが人間本来の姿であると思うからです。
僅かな希望を抱きながらりんごの苗を植える、
それは能動的で前向きな心の現れでもあります。
何もしないで絶望よりは、
いまこの瞬間を能動的に生きる方向に切り替えたほうが、
より有意義な生き方といえます。
パグワン・ラジニーシ(OSHO)はこのように言っています。
「善い」か「悪い」かで判断してはいけない。
常に、「善い」か、「もっと善いか」で判断しなさい
どっちでも善いのだから、より善い方をとりなさいということです。
これがいわゆる人生の真理なのです。
結論、まとめ
以上から、私なりの結論を書きます。
そもそも原因と結果がないのであれば、
どのように生きればいいのか?
また、そこに生きるメリットを見いだすとしたら何なのか?
私ならこう答えます。
いまこの瞬間を「らしく」生きる。これがメリットです。
さまざまな経験をすること。これ自体がメリットです。
だからなんでもいいんですよ。
未来に怯え、過去に悩まされるといったことは、
すべて自分で勝手に作り上げた「物語」「幻想」でしかありません。
ですので、もっと気楽な姿勢で生きたらいいですよ。
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