はじめに

どうも空心です。

さてブックレビュー、及び覚書となりますが、
今回は、末木文美士の著書「仏教VS倫理」(ちくま新書)の中から
気になった箇所を取り上げます。

 

これ!

新版はこちらのようです↓

悟りと慈悲の関係を問う

慈悲

仏教とかで「慈悲」ってよくでてきますよね。

慈悲とは広義の意味で、
怨親平等で他者に接し、抜苦与楽(ばっくよらく)するということですが、
そもそも、「悟り」の中に、慈悲は含まれるのでしょうか?

 

末木氏は本書でこのように考察してあります。
以下長いですが本書より引用。

「(中略)・・梵天が勧請しなければ仏陀の説法はなかったかもしれないのである。このことは、仏陀の教説が少なくともその中核には”人々のために教えを説く”ということを含んでいなかったということを示している。その悟った真理の中核に、”このことを人びとに説かなければならない”ということが含まれていれば、逡巡する余地などなかったはずだからである。教えを人々に説いてその苦しみから救うということは仏陀の最高の慈悲の行為であるが、それが必ずしもその悟りの真理の中核になかったということは驚くべきことである。まったく一人で人里離れてひっそりと死んだとしても、仏陀の悟りの根本に背くことにはならないのである。とすれば、それは悟りの真実からは出てこない別の原理によることになってしまう。すなわち、慈悲の原理は仏陀の悟りの原理とは違うところにあるということである。・・(以下略)」

—《仏教VS.倫理》P42

つまり、慈悲ということは、必ずその慈悲を及ぼす相手となる他者を必要とします。
そのことから「慈悲の原理は悟りの原理とは別にある」と末木氏は言及されるのです。

「ありのままでOK」という悟りでいいのか?

ありのままでOK、「いまこの瞬間」に過去・現在・未来が内包されている等、
昨今のスピリチュアルブームにおいて悟りに対する表現は種々散見されます。

私個人の「悟り」に対する認識も、
自他の分別のないワンネスという充溢を感得することに相違はありません。
(自身、悟り体験があるわけではありませんので真実はわかりませんが)

ただ末木氏の言われるように、
「慈悲の原理は悟りとは別にある」とすれば、
分別のある実相の世界においては、
「悟った後の慈悲の行」が肝要になるのではないでしょうか。

※何をもって悟りとするかの詳細はここでは問いません。

さらに以下、仏教的な見地から悟りへと至る心の状態を見ていくこととします。

四聖六道

雲

仏教には、「十界」といって人間の心の全ての境地を十種に分類します。

十界の中身はといえば、上から仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界の四聖(ししょう)
天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六道(ろくどう)の「四聖六道」に大別されます。

中でも四聖は、悟りへ至るまでの階梯を現す。

四聖それぞれの意味は以下、WIKIから引用させてもらいました。

仏界
悟りを開いた状態。
菩薩界
仏の使いとして行動する状態。自己の意思はともかく「行動」そのものを指すとされる。
縁覚界
仏道に縁することで、自己の内面において自意識的な悟りに至った状態。仏界における「悟り」とは根本的に異なる。
声聞界
仏法を学んでいる状態。仏法に限らず、哲学・文学・物理学、さらには大衆娯楽や子供の戯言に至るまで「学ぶ」状態を指す。

 

仮に「悟って終わり」、「ありのままでOK」という姿勢があるならば、
おそらくは縁覚や声聞(「二乗」といいます)の状態にとどまっている可能性があるわけです。
二乗が得た悟りはあくまでも部分的なものと言えます。

 

百尺竿頭に一歩を進む」という禅語がありますが、
その一歩とはこの慈悲であるような気がしてならない今日このごろ。

総 評

  • 読みやすさ
  • わかりやすさ
  • コスパ
  • 啓発度
  • 信頼性
  • 即効性
  • 実用度
3.4

総 評

これも評価しづらいですが、
私個人としては発見が多かった。
それにしても末木さんの毒舌いいなぁ~(失礼か)

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