レヴィナス(哲学者)が云うところの「善」について言及してみます。

レヴィナスはこんな人↓

以下の本を参考↓

「欲求」と「欲望」の違い

「善」とは何か?という設問に入る前に、
「欲求」と「欲望」の違いから見ていく必要がありそうです。

「欠如が満たされる得るものが”欲求“、
欠如が充足されるにつれて
ますます欠落感が昂進するようなものが”欲望“」

レヴィナス曰く、“欲望”の方を「善」とする。 みたいです。

絶対的な遅れ

『善とは、「自分は何をしたらよいのかわからない」のだが、
「自分は何をしたらよいのかわからない」という世界に
投じられてあることを
絶対的な遅れ」として引き受け、
おのれに「絶対的に先んじているもの」(言い換えれば「存在するとは別の仕方で」私たちにかかわってくるもの)を
欲望するという事況そのものを指しているのです。』

「絶対的に先んじているもの」とは神とか仏とかいう言葉にできない「何か」。
“事況そのもの”ということがミソかな。

『「善悪」にかかわる戒律は、
「絶対的に遅れているもの」に「絶対的に先んじているもの」が
贈与」したものであり、
それを「遅れているもの」は拒否することができない
という物語と込みで与えられている』

『ですからむしろ重要なのは、戒律の文言ではなく、
神の与えた戒律を人間は拒否することができない
という「無能の覚知」の方にある。
つまり「善」というのは、
戒律の「コンテンツ」ではなく、
戒律が与えられる「仕方」のことを指す』

分かるような分からないような・・・・

「事況そのもの」が「善」

『私たちは、それが絶対に不可能であるということを分っていながら、
私たち自身を世界に誕生させたものが
「何のために、私たちをこの世界に送り込んだのか」を知りたく願います。

「私がここに生きているのは、自明のことである」
という無反省のうちにまどろんでいる人間は
いってしまえば「動物」的な存在者です。

私はいかなる意味があって、この世界に送り出されたのか」
という(答えが得られるはずのない)問いから逃れられない
という宿命が人間の人間性を、
言い換えれば人間の「善性」を構成している。

普通言うところの「善悪」の概念とは大分異なっているということは理解できますが・・・難解です。
かくしてレヴィナスは真理を希求せざるをえないという状況下に置かれていること(「事況そのもの」)が「善」であるというわけです。

さらに付け加えさせてもらえれば、追及する余地をあえて人間に与えることによって欲望を掻き立てることができ、また時に欲望に振り回されることで快楽という経験を味わうことができると。すべてはこの不可解な状況下のおかげなんでしょう。
だから世知辛い世の中でも、大局の立場でもって享受できる(楽しめる)人間こそが神の願いに適っているということか。

「人生思い通りにならないからこそ意義がある」

果たしてここまで達観できる人間がどれだけ存在するだろうか。

 

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