車が来ない赤信号でも待ち続ける日本人は美しいのか
はじめに
どうも。
最近は紙の本をあまり読まない空心です。
なにせ安いから電子版は。
さて今日は、というか今日も、
本の中から気になった箇所を引用、言及したいと思います。
評論家・哲学者、思想家でもある内田樹氏と、
脳学者の養老孟司氏の対話本「逆立ち日本論」。
この本↓
なお、
投稿タイトルの回答は最後にまとめるとします。
内田樹と養老孟司の対話「ルールについて」
本書の中で
「交通ルール」の捉え方について
こんなやりとりがありました。
内田「信号は、人間が安全に横断するためにある装置ですから、安全に横断できるということが分かっている状況で信号に従う必要はない。その装置や制度はそもそも何のためにあるのかと問わないといけないです。」
養老「人間のためにあるのだからね。」
内田「ルールは、人間のためにあるので、ルールのために人間がいるのではないんです。だから、ぼくが赤信号で横断歩道を渡るのを怒る人は、逆に青信号なら車を見もしないで渡り始める。自分はルールを守っていて車にはねられたのだから、悪いのは相手だという言い分が通ると思っているから、周囲の状況を見ない人がいる。「ルールを守らないお前が悪い」って言える保証があれば、かなり危険な運転もする。ほんとにいるんですよ、自分のほうが優先通行権があるからって、交差点に加速しながら突っ込んでくるやつ。法規は人間の安全のために作ったものなんだから、まず人間が自分の安全に配慮しないと。」— 《逆立ち日本論》内田樹・養老孟子、p149
皆様の見解はいかがでしょうか?
私の場合、概ねお二方と同意見ですね。
優先通行だからといって交差点を暴走だなんて、完全にルールに溺れすぎちゃってます。
法による自縄自縛とはこういうことをいうんでしょう。
もはや本来の意味を忘れてしまっています。
ルールに牛耳られた人間
良いか悪いかを判断する基準を
法に委ねるのは普通一般の考え方ですが、
そもそも法が成立した由縁を探れば、
人間同士の安全配慮が大義のはずです。
それなのに、
法(ルール)を絶対化しすぎて、
自身の安全を全面的に法に委ねてしまっている。
本来は、
でなければならないところが、
という本末転倒な構図になっちゃってる。
気づけば法に牛耳られている人間。
またそのことにさえ気づいていない人間って一体(^_^;)
意味を問うことの大切さ
「そもそも何のためにあるのか」といった、
誰しもが共通理解のもとにあるようなことが、
意外にも忘れ去られ、置き去りにされてしまっているようです。
この事例から学べることは、
何事も本質的に捉えていく態度でしょうか。
つまり端的に言えば、意味を問う姿勢。
神秘家のグルジェフが、
無知蒙昧な人間に対し「自動機械」と揶揄していましたが、
そんな「考えることを放棄した(他に委ねた)」人間が増えてきているのかもしれません。
念頭に置くべきは安全配慮
特に日本人はルールを忠実に守ることを美徳にしがちですので、
あきらかに車が全く来る気配がないときでも待ってる人多いですよね。
自分が普段どうしてるか振り返ってみると、
私の場合、安全が確保できているときや、
車が来ていないときは赤信号でも渡ることがあります。
(さすがにパトカーに目撃された時は怒鳴られましたが。)
ただ個人的な心がけとして、「小さな子ども」が見ているときはしません。
小さな子供は状況判断があやふやですので、安易に真似される恐れがあるからです。
※本稿の趣旨は「赤信号のときでも安全ならば渡りましょう」と扇動しているわけではありません。やはり社会的な立場、周囲の目というものを意識せざるを得ないのが人間でしょうから。
運転中は優先道路だからといって堂々と交差点に侵入することはしません。
そこまで他の車を信用できないですね。スピードを落として左右を確認します。他の車に迷惑がかからない程度に。
では結論。
Q.「車が来ない赤信号でも待ち続ける日本人は美しいのか」
A.「滑稽」
終わりに
それにしても社会生活はルールだらけではありますが、
相互の安心・安全に結びつくことを念頭に置いてすごしたいものです。
上手に「ルールを牛耳っていこう」
と所信表明したところで本稿を終わります。
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